それは、自分の体に発見をもたらしてくれる
科学的なアプローチのトレーニング
幼い頃、砂場で丘と溝を作り、水を流して「川」を作る遊びをした覚えはないでしょうか。
最初は思ってもいないところにも水が漏れ出てしまったかもしれません。それでも、何度も何度も同じ溝に「水を流し込む」たびに、その溝は大きくなり、やがて「大きな川」になったことでしょう。
人間の『神経回路』も、この「川」と同じです。
誰しも生まれたての時は、どのような動きにも自分の癖というものはありません。そこからハイハイが出来るようになり、歩けるようになり、学校に通うようになり…と生活をしていく中で、人間には動きのパターンができてきます。
例えば、両手の指を組む時、左右どちらの親指が上にきますか?反対の指を上にするように組んだら、変な感覚になりませんか?
それは、あなたが今までの生活の中でその指の組み方を習慣化させたからです。
まだ[指を組む]ということが何かわからない時から今までにかけて、何度も何度も脳から[指を組む]という『指令』が出されました。これは砂場で言う「水を流し込む」行為です。
最初のうちは思ってもいないところに漏れ出ていた水も、何度も何度も「水を流し込む」うちにひとつの「大きな川」ができたように、最初はどちらも同じような比率で組んでいた指が、何度も何度も[指を組む]という『指令』が出され続けるうちに、“右(左)を上にして”指を組むというひとつの『神経回路』が太くなっていくのです。
そして、その『神経回路』がある程度太くなった時、最初は存在していた他の選択肢が、まるで存在しないと感じてしまうほどに、習慣化された動きが【当たり前】になってしまうのです。
ここで問題なのは、「習慣化された動きが、実はダメな動きだった」ということではなく、「これしかできない」という状態になってしまったということです。
右を上にして指を組むことは、何も悪いことではないですよね。しかし「右を上にしてしか指を組めない」ということになっては話が変わってきます。
フェルデンクライス・メソッドは、【当たり前】な動きにかき消され、自分ではもう選べなくなってしまった他の選択肢を、もう一度発見させてあげることができる、トレーニング法です。
音楽家における“習慣化された動き”とは
楽器を弾くということは、体を動かすということです。ということは、楽器を演奏する際にも、実は本人も気づいていない、もっと違った体の動かし方がある可能性は大いにあります。
そして、その「もっと違った体の動きの感覚」が加わって初めて、【自分に一番心地よい奏法】を発見していくことができます。「これしか出来ない」という状態では、このような発展は極めて難しいです。
これは、音楽家だけではなく、様々な分野でも同じことが言えます。
ハンマー投で有名な室伏広治さんの独自トレーニング、実はフェルデンクライスと考え方のエッセンスがほぼ一緒なんです。キーワードは「脳・神経系」。より高いパフォーマンスを得るには、「繰り返しで同じ箇所の筋肉を強くする、ある一定の動作の完璧さを求める」よりも、様々なことに対応できるバランスの取れた体が必要。その体があってから初めてその時その時に応じた最適な動きを選んでいくことができます。
「あなたは、自分の腕がどこからどこまでだと思っていますか?」「指の第3関節はどこだと思っていますか?」
この問いに「え?ここしかないでしょう?」という答えがでてきたら、もっと弾きやすい体になるチャンスです。
実際、どんなことをするのか
心地よい楽な動きを通して、自分の体をゆっくり丁寧に観察します。
息が上がるような筋トレ要素はなく、時間をかけて行う反復練習もありません。「休憩」も重要視しているほどなので、運動が苦手な方も全く問題ありません。
理解し習得していくには、実際にレッスンに来られることをおすすめしますが、まずはどの様なものか見てみたい方は、「mini lesson」を試してみて下さい。
創始者モーシェ・フェルデンクライス
ここまで、長々とお話してきましたが、この「フェルデンクライス・メソッド」は「モーシェ・フェルデンクライス」というユダヤ人物理学者が創ったトレーニング法です。
モーシェ・フェルデンクライス
Moshe Feldenkrais
1904年5月6日-1984年7月1日
理学博士でありながら、エンジニア、物理学者、発明家、武道家、人間発達学の研究者。
1930 年代ソルボンヌ大学で、ノーベル賞受賞者ジュリオ・キュリーと共同研究をし、同じ頃、柔道の嘉納治五郎とパリで出会い、自身がフランスでの最初の黒帯所持者となる。
1940年代ナチスの侵略を避けるためイギリスに渡り、イギリス海軍にて潜水艦探知機ソナーなどを発明。同時期に『身体と成熟した行動』を出版。フェルデンクライス・メソッドを体系化し、世に公表する。
1950 年代イスラエルに戻り、イスラエル国防軍電子局の長官を務めた後、1984年首都テル・アビブで亡くなるまで、世界各国から招かれフェルデンクライス・メソッドを教えた。